『公仁子とバレエ』


バレエをするに至った経緯 (母親の手記)

公仁子がバレエを習いたいと言い出したのは小学校の三年の時でした。
何時も泥んこになってお兄ちゃんのお友達と外を掛け回っている子でしたので、私は本気とも思えず『よく考えてみましょうね』と返事をしておいたのを想いだします。ところが、それから何度も『バレエ習いたい』と言って来るので『あなたは、ピアノとバイオリンと公文算数もやっているのだから無理よ。バレエはとても大変なんだから。四年生になったらね』と適当に逃げたつもりでした。


そのうち忘れるだろうと思って。けれど、四年になったと同時に又『バレエが習いたい』が始まりました。私は、小麦色に日焼けした顔でにらみつける様にしている公仁子を見ながら、私のイメージにあるバレエの世界と元気過ぎる娘の姿があまりにかけ離れている様に思えて『お姫様みたいな格好したいから?』とたずねました。『ちがうちがう、私練習がしたい、こうやって廻ったり、ほら脚だってこんなに上がるもん』との返事、私は何だかさっぱり訳が分からないまま『ママは、バレエ教室だってどこにあるのか解らないしね。学校で体操していればいいんじゃない』と諦めさせようとしました。
すると、お兄ちゃんが横から『駅にバレエ教室の広告があったよ、あそこへ行けばいいんじゃない』と口を出します。『そう、それでいい私行く』と話はどんどん決まります。仕方なしに翌日元気一杯の公仁子に連れられて、重い足取りの私は駅前の本屋の三階にあるバレエ教室に行くはめになったのでした。


コッペリア、鐘のマーチより
初めての発表会にて

(小学4年生)

行ってみると若い男の先生が小学生の女の子たちに『首の長―い人、お腹の無―い人』なんて言いながらレッスンをしています。変な所に来てしまったと思いながら公仁子を見ると、もう嬉しそうに目を輝かして今にも仲間入りしたそうな様子です。そのうちレッスンが終わり先生にご挨拶すると『うん、恵まれているナー』と上から下まで公仁子の事を見ながらおっしゃいました。それで、私も少し気をよくして『入れて頂けますか』とたずねてしまいました。そして、先生の二つ返事で習う事が決まりました。

そのうち、すぐ『やめる』と言うだろうと思いながら帰宅しました。ところが、思いきり喜び勇んでレッスンに通う日が続き台風が来ようが雪が降ろうが『今日は天気が悪いからお休みの人が多いかも知れない、そうすると良く見て貰えるから』なんて言いながら意気揚揚と出掛けて行きます。そのうち、熱心で伸びそうな人を選んで特別レッスンをしますが入りませんか、と言うお話があったりして、中学生になると、いつのまにか主役を頂いて来るようになりました、けれど、楽しい遊びの延長のような事を中学生になって続けているには、時間もお金もかかり過ぎ、このままほっとておいてよいかと親としては考えざるを得なくなりました。


飛び出しねずみの衣装で

中二の時、父親の友人の奥様に昔バレエをしていた方があり、発表会で、「白鳥の湖」の全幕バレエでオデット姫を踊った時にお招きしました。そして、その方に相談してみたところ、せっかく良い素質を持っているので、もっと本格的に習った方がよいとアドバイスを頂き、先生を紹介して下さいました。公仁子もそちらへ移ることを望み、新しいステップへ踏み出しました。


白鳥の湖より
オデット
(中学一年精)

楽しいきれいな舞台を目指して遊んでいたようなそれまでの教室とは全く異なり,脚の出し方,顔のつけ方,姿勢のとり方等々、一から厳しい厳しいレッスンが始まりました。
先生は、情容赦無く叱りつけ、高学年になり学業との両立も大変で、流石の公仁子も苦しみ始めたようでした。最初から、期待をしていなかった私は、公仁子が愚痴をこぼすたびに『じゃーやめたら』『止めなさいよ』といつも本気で言っていました。
大体、バイオリンをきちんと練習して学校のオーケストラに入ればよいと思っていたので、私のバレエへの思いはあっさりしたものでした。それに、この厳しさを乗り越えられなければ決して本物にはなり得ないと思っていました。
けれど、新しい先生は方々の講習会や他の先生の集中レッスンに公仁子を出して下さいました。そしてそこで、公仁子は、多くの優れた友人達に出会い沢山の刺激を受けた様でした。

美しい本物の舞台を夢見させて下さった最初の先生。厳しく一から技術を磨いて下さった次の先生。両先生のお蔭で公仁子のバレエは少しずつ本物に近づいてゆきました。

高校三年の時、我が家にスイス人の女流画家がホームステイなさいました。
その方が公仁子のバレエに興味を持ち、スタジオまで参観に行って下さいました。そして、翌年スイスに帰った彼女からドイツ・ハンブルグ国立バレエ学校入学の誘いが届いたのです。
バレエ学校へ写真と書類を送るとすぐに来るようにと返事を頂きました。大學一年になっていましたが、受け入れが十八歳までとあるので最後のチャンスでした。そこで、学校には留年と云うことにして、一年間留学することに決めたのでした。国立で、月謝もなくトウシューズ等も支給される上、コールドバレエで劇場の舞台に出た時には少しですがお金も頂けると言う、日本では考えられない恵まれれた条件で、ただ驚きながら出発しました。

考えてみると、まだ幼さない時から音楽を聞けば何処でも踊っていたこと(跳び回っていた)、祖父に連れられて行ったゴルフ場でも踊りながらついて廻っていたこと等々が思い出され、人知を超えた導きの道であったことをその時になって私は思い知らされたのでした。



ゴルフ場にて
(公仁子 4歳)

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