楽しいきれいな舞台を目指して遊んでいたようなそれまでの教室とは全く異なり,脚の出し方,顔のつけ方,姿勢のとり方等々、一から厳しい厳しいレッスンが始まりました。
先生は、情容赦無く叱りつけ、高学年になり学業との両立も大変で、流石の公仁子も苦しみ始めたようでした。最初から、期待をしていなかった私は、公仁子が愚痴をこぼすたびに『じゃーやめたら』『止めなさいよ』といつも本気で言っていました。
大体、バイオリンをきちんと練習して学校のオーケストラに入ればよいと思っていたので、私のバレエへの思いはあっさりしたものでした。それに、この厳しさを乗り越えられなければ決して本物にはなり得ないと思っていました。
けれど、新しい先生は方々の講習会や他の先生の集中レッスンに公仁子を出して下さいました。そしてそこで、公仁子は、多くの優れた友人達に出会い沢山の刺激を受けた様でした。
美しい本物の舞台を夢見させて下さった最初の先生。厳しく一から技術を磨いて下さった次の先生。両先生のお蔭で公仁子のバレエは少しずつ本物に近づいてゆきました。
高校三年の時、我が家にスイス人の女流画家がホームステイなさいました。
その方が公仁子のバレエに興味を持ち、スタジオまで参観に行って下さいました。そして、翌年スイスに帰った彼女からドイツ・ハンブルグ国立バレエ学校入学の誘いが届いたのです。
バレエ学校へ写真と書類を送るとすぐに来るようにと返事を頂きました。大學一年になっていましたが、受け入れが十八歳までとあるので最後のチャンスでした。そこで、学校には留年と云うことにして、一年間留学することに決めたのでした。国立で、月謝もなくトウシューズ等も支給される上、コールドバレエで劇場の舞台に出た時には少しですがお金も頂けると言う、日本では考えられない恵まれれた条件で、ただ驚きながら出発しました。
考えてみると、まだ幼さない時から音楽を聞けば何処でも踊っていたこと(跳び回っていた)、祖父に連れられて行ったゴルフ場でも踊りながらついて廻っていたこと等々が思い出され、人知を超えた導きの道であったことをその時になって私は思い知らされたのでした。
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